思い出した(考える力)
自分なりの、いろいろな方法を試すことはとても大事なことだと思う。
忘れた。
算数の時間で九九を習ったときであった。
私ともう一人の友達が先生に言った。
「先生、こんなん覚えなくても、二かける二は、二が二つやから、四、 九かける九は、九が九つやから八十一やんか」
先生は、何も答えなかった。
子どもは頭の回転が速いので、掛算の意味を知っていれば、パッと答えを出せる。
何故念仏のように九九を唱えて覚えるのか
不思議に思った。
「 クク ? それはなんのため? 」
今、改めて考えてみても、九九に頼らず
さっと計算出来るに越したことはない。
例えば、八、六、四十八、うーん、八、七が思い出せない、というのは、馬鹿げた話だ。
八が七つだから五十六だ。
十が七つから、七つの二を引いても良い。
また、八、七 ではなく
七、八 は幾つかを考えても良い。
九九を覚えていれば、計算する時間を必要とせず、計算間違いも減る。
何かを記憶しておく方法の一つと して、歌や語呂合わせの文章にして記憶する方法を会得しておくという事、これも生活する上で大切にすべき知恵だと思う。
覚えたくなければ覚えなくても良い、ところが歳を取ると頭の回転が遅くなる。
その時に計算出来なかったり、計算を間違ったりすると困る。 小学低学年のうちに 九九を歌のように覚えておいたほうが良い。
しかし、ただ、それだけでは、生まれながら持っている「考える力」の多くが削がれてしまうことの問題が大きいように感じる。
筆算もそうだ。 もっと速くて確実な解き方はいくらでもある。 何故先生は頑なに一つの方法を教えるのか、とても納得が出来ず、嫌悪を感じずにいられなかったことを思い出した。
「 各々の生徒が、独自の方法を考える余地を残した教え方をしているのだ 」という反論もあるだろう。
しかし、そうはならず、考える力を削いでしまっている場合が多いのでは無いだろうか。
懐かしい。
繰り返す。
「 いろいろな方法を試す 」はとても大事なことだと思う。
よって、私は、もし、生徒が
周囲から笑われても、或いは誤解される 危険を冒しても、勇気を出して異なる考えや方法を言ってくれたならば、その生徒 を大いに褒め、大いに感謝する。
なぜなら、その方が良い結果が生まれる
ことが多いからだ。
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